ハラスメントの定義について、スライド形式で、 ILO第190号条約と日本法の比較を行ってみました。
背景:世界的な要請
職場ハラスメントは個人の尊厳、健康、企業の生産性に深刻な影響を及ぼす問題です。#MeToo運動などが社会の意識を高め、法整備を求める声が世界的に強まっています。
国際基準:ILO第190号条約
2019年に採択された、仕事の世界における暴力とハラスメントを包括的に扱う初の国際条約。ハラスメントを人権侵害と位置づけ、加盟国に法制化を求めています。
日本のハラスメント法制
セクハラ、マタハラ、パワハラなど、個別の問題に対応する形で発展。異なる法律で規制される「断片的」な構造が特徴です。近年、保護範囲は拡大傾向にあります。
ILOの根本思想:人権アプローチ
ハラスメントを単なる労働問題ではなく、基本的人権の侵害と捉えます。「暴力及びハラスメントのない仕事の世界に対するあらゆる人の権利」を保障することを目的としています。
ILOの定義:統一的概念
「暴力とハラスメント」を一つの統一された概念として定義。身体的、精神的、性的、経済的害悪を目的とする、またはその可能性のある「許容できない行為」を包括します。
ILO定義のポイント①:頻度と意図
- 頻度:「単発的か反復的か」を問わず成立。
- 意図:加害者の意図よりも、被害者に生じた「結果」や「可能性」を重視。
ILO定義のポイント②:損害とジェンダー
- 多様な損害:身体的、精神的、性的損害に加え「経済的害悪」を明記。
- ジェンダー視点:ジェンダーに基づく暴力とハラスメント(GBVH)を核心に位置づけ。
ILOの広範な適用範囲:「仕事の世界」
保護されるのは物理的な職場に限りません。「仕事の過程、関連、起因して生じる」あらゆる場面が対象です。
「仕事の世界」の具体例①
- 公私の物理的な職場
- 休憩・食事場所、衛生・更衣設備
- 仕事に関する出張、移動、訓練
「仕事の世界」の具体例②
- ICTを介したコミュニケーション(SNS等)
- 使用者が提供する住居
- 往復の通勤途上
保護対象者:すべての人々
「契約上の地位にかかわらず」仕事の世界のすべての人を保護します。非典型的な働き方が増える現代経済の実態を反映しています。
批准国の義務
- 法による直接的な禁止と制裁
- 防止、救済を含む包括的戦略の策定
- 第三者(顧客等)やDVへの対応
日本の基本原則:事業主の安全配慮義務
ハラスメント法制は、事業主が労働者の安全を確保する「安全配慮義務」が根幹。法律は、この義務を具体化し、事業主に防止のための「措置義務」を課す形で構成されています。
パワハラの定義:3つの要素
日本の法律(労働施策総合推進法)では、パワーハラスメントは以下の3つの要素を「すべて」満たすものと定義されています。
パワハラ要素①:優越的な関係
職務上の地位だけでなく、知識・経験の差や、集団による行為など、実質的な力関係における優位性があれば該当します。
パワハラ要素②:業務の適正な範囲を超える
「社会通念に照らして」判断されます。業務上の必要性がない、またはその態様が相当でない言動が該当します。労働者に非があっても、人格否定は許されません。
パワハラ要素③:就業環境が害される
労働者が身体的・精神的に苦痛を受け、能力の発揮に重大な悪影響が生じること。「平均的な労働者の感じ方」を基準に客観的に判断されます。
パワハラの6類型①:身体的な攻撃
暴行・傷害など、身体に直接危害を加える行為。
パワハラの6類型②:精神的な攻撃
脅迫、名誉毀損、侮辱、ひどい暴言など、心に傷を負わせる行為。
パワハラの6類型③:人間関係からの切り離し
隔離、仲間外し、無視など、孤立させる行為。
パワハラの6類型④:過大な要求
業務上明らかに不要なことや、遂行不可能なことの強制。
パワハラの6類型⑤:過小な要求
能力や経験とかけ離れた程度の低い仕事を命じる、仕事を与えないこと。
パワハラの6類型⑥:個の侵害
私的なことに過度に立ち入る行為。
セクハラの定義:2つの類型
男女雇用機会均等法に基づき、職場におけるセクハラを2つの類型に分類しています。性別や性的指向・性自認にかかわらず成立します。
セクハラ①:対価型
意に反する性的な言動を拒否したことなどを理由に、解雇、降格、減給といった労働条件上の不利益を受けること。
セクハラ②:環境型
意に反する性的な言動によって就業環境が不快なものとなり、能力の発揮に重大な悪影響が生じること。
マタハラ等の定義:2つの類型
妊娠・出産、育児・介護休業等に関するハラスメント。男女雇用機会均等法、育児・介護休業法で規制されています。
比較① 概念的枠組み
- ILO:「暴力とハラスメント」という単一・包括的な概念。予防的。
- 日本:パワハラ、セクハラ等を個別法で規制する「断片的」な構造。事後的。
比較② 法的メカニズム
- ILO:ハラスメント行為そのものを「法律で禁止」し、「制裁」を設けることを義務付け。
- 日本:行為自体は直接禁止せず、事業主に防止のための「措置義務」を課す間接的な規制。
日本の措置義務の限界
法違反はハラスメント行為そのものではなく、事業主の措置義務不履行。行政の介入は助言・指導・勧告に留まり、企業名公表が最大の強制力。直接的な罰則はありません。
比較③ 適用範囲
- ILO:「仕事の世界」という包括的な概念。通勤途上やICT通信も明確に含む。
- 日本:「職場」の解釈は拡大傾向にあるが、通勤途上などは依然として曖昧。
ケーススタディ:第三者ハラスメント
顧客等からのハラスメント(カスハラ)への対応は、日本法がILO基準に近づいた象徴的な事例です。
日本のカスハラ対応の進化
従来は「望ましい取組」でしたが、法改正により事業主に相談体制の整備などが法的な「義務」となりました。ただし、これも顧客を直接規制するのではなく、事業主への間接的な義務付けです。
日本のILO第190号条約批准への障壁①
- 直接禁止規定の欠如:最も根本的なミスマッチ。
- 断片的な法体系:ILOの求める統合的アプローチと不整合。
日本のILO第190号条約批准への障壁②
- 定義と適用範囲の狭さ:ギャップは縮小中だが、まだ不十分。
- 実効的な制裁の不存在:直接的な罰則がない。
包括的ハラスメント禁止法制定の動き
労働組合や専門家から、断片的な規制を統合し、ILO基準に沿った「包括的ハラスメント禁止法」を制定すべきとの声が上がっています。
保護のフロンティア拡大①:就活ハラスメント
法改正により、事業主に就職活動中の学生等へのセクハラ防止措置が義務化。ILOが求める「求職者」の保護に近づく一歩です。
保護のフロンティア拡大②:フリーランス
「フリーランス保護新法」により、発注事業者にフリーランスへのハラスメント防止体制整備が義務付け。伝統的な雇用関係の枠を超える画期的な立法です。
結論①:根本思想の相違
ILOの「権利基盤アプローチ」と、日本の「義務基盤アプローチ」との間には、根本的な思想的差異が存在します。
結論②:構造的ギャップと漸進的収斂
批准への構造的ギャップは大きいものの、近年の法改正はILOの理念に実質的に近づこうとする「漸進的な収斂」の動きを示しています。
提言:政策立案者へ
- 短期:新制度の実効性ある指針策定と効果測定。
- 中期:批准国の事例研究と影響のシミュレーション。
- 長期:「ハラスメント撤廃基本法」の制定を目指す。
指針:事業主へ①
- コンプライアンスを超える:ILO基準を参考に統一的な社内方針を策定。
- 「仕事の世界」を意識した運用:適用範囲を業務関連のあらゆる場面に拡大。
指針:事業主へ②
- 実効性のある研修への投資:相互尊重の文化を醸成。
- 第三者ハラスメントへの対応強化:具体的な対応マニュアルを整備。
- 未来への備え:現時点でC190準拠の体制を構築することが最善のリスク管理。